実名報道は魔除けのため

 アルジェリアの事件の犠牲者の氏名を政府も会社も発表しないことに関してマスメディア側から理屈にもならん理屈での政府・会社への非難が笑われているけど、マスメディアが実名報道にこだわるのは宗教的、というか呪術的な理由がある。

 井沢元彦さんが「逆説の日本史」の中で説いているように、平安時代から日本には「不幸な死に方をした人は祀って称えないと祟る」という考えがある。いわゆる御霊信仰菅原道真はその典型で、六歌仙三蹟はみな不幸な死に方をしていたり、諡に「徳」の字が入っている天皇は不幸な死に方をした天皇だったりとかの指摘がされている。

 で、それを今の日本のメディアにあてはめてみると、事件や天災でなくなった人をやたらいい人だったと褒め称えるのも、避難され続けた人でも死後は非難が手加減されるのも同様の理由。それは読者・視聴者がそのように考えているという以上に、メディア側がそう考えているということがある。「なくなった人を取り上げて商売をしている」ことに関してひけめがあるし、へたすると祟られると思っている。そのためには個人名が必要で、匿名での褒め称えでは祟り除けには不十分。一方読者・視聴者にはそんなひけめがないから、名前を知る必要はないと考える。そこで両者の齟齬が目立つようになってしまった。

 前にも書いたけど、靖国神社を支持する人も反対する人も不幸な死に方をした人のたたりを怖がっている。その「不幸な死に方をした人」が日本の戦士なのか、戦争で死んだ一般人や交戦国人なのかの違いというだけで。

1月26日追記

 今回メディアがやっきになるもうひとつの理由がわかった。もうひとつの理由というか、同じ理由の別の面ともいえる。
 不幸な死に方をした人が祟らないようにするには、その人を称えるということの他に、その裏返しで死ぬ原因を作った人を悪く言うという方法がある。殺人事件の容疑者がメディアで罵られる(最近は少し控えめになったけど)のとか、自然災害の時にはなんとか行政の不備を見つけて人災的側面を強調する。そのことによって、なくなったのは本人のせいではない、因果応報的なことではないというを言って、逆方面から祟りを避けることになる。
 今回の事件、首謀者は誰かよくわかっていないし、実行犯は大部分死んでいる。罵る対象がはっきりしないし、国内の事件や災害の時のような取材力はないから罵るネタがあまり見つからない。死んだ実行犯を罵るとこんどはそっちから祟られる恐怖がある。
 だから、不幸な死に方をした人から祟られないためには、その人を称えるしか方法がない。だからメディアはなんとしても人を特定した上で最大限の賛辞を送ることにこだわるということになる。

 読者や視聴者がメディアの氏名公開要請に批判的なのも祟りよけ。知らなければ遠い世界のできごとだけど、知ってしまうと近くなる。リアリティがあればあるほど不幸な死に方を近く感じ、祟られる可能性が増えてくると感じるから。まさに「触らぬ神に祟りなし」状態。

 いわば「不幸な死に方をした人たちに職業として関わっている人たちの巻き添えにされたくない」とでもいうところか。