国歌は国の歌じゃない

 結論からいってしまうと、国の歌じゃなくって国家の歌、もしくは政府の歌ということ。国旗にしても同様。
 日本の場合、国と国家、政府の区別が意識されることは少ない。地理的にも周辺から離れていて、国民の同質性も高い。でもこれは世界の中でみるとかなり異例。
 朝鮮半島について、大部分の日本人は2つの国と思っているだろうけど、韓国的に見たら「けしからんことに、わが国の領土の一部を武力で不当に占領し、政府のまねごとしているやつらがおる」っていう状態。つまり「1つの国、1つの国家、1つの政府、1つのけしからん勢力」という構図。日本政府の公式見解も同様。逆に朝鮮民主主義人民共和国を名のる人たちからみると「われわれの祖国の一部をアメリカの傀儡政権が占拠しとる」となる。中国でも似たようなもんで、中国共産党政府はなにかというと「台湾の独立の動き」に反応するけど、日本の人たちから見れば、すでに中華民国は独立した国(もしくは国家)だと思っている。
 国歌、国旗も韓国、北朝鮮ともそれぞれがそれぞれの主張、価値感に沿ったものを作っている。日本でも、自然発生的なものだといわれている日の丸はともかく、君が代は明らかに明治政府が作った明治政府の歌で、その意味で「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という東京地方裁判所の判決での指摘はまったくもって正しい。その裏返しで「政治的に中立の国歌」などはありえないということでもある。さらにいうなら、裁判制度も現行の体制の中でおこなわれているものであるので中立にはなりえないんだけど。
 「法律で決まってる歌、旗なんだから中立だ」ということは制度的には前提条件ではあるけど、議論、あるいは感情レベルでは、たとえば右の人は憲法教育基本法を「中立的でない」と思っているだろうし、左の人は自衛隊関連の法律とかを「中立でない」と思っているだろう。
 「法律で決まった歌、旗なんだから、尊重する態度を表すべき」という人にはこんな世の中を想像してみてほしい。たとえば、コミュニズムを掲げる勢力が日本で政権をとり、合法的手続きによって国歌と国旗を赤基調のものに変更した場合。あるいは徳川幕府を擁立する勢力がクーデターで政権を取り、国旗を葵の御紋に、国歌を「ああ人生に涙あり」に変更し、国民に掲揚、斉唱を義務づけた場合。キムチ臭い武装勢力が日本を占領し、その勢力の使う言葉での国歌をつくり、青と赤の混じった旗を国旗にした場合。そういう時に今の政府を支持し、君が代と日の丸を支持する人は「法律で決まっていることだから」と新しい国歌と国旗に尊敬・尊重する態度をとりますか?
 じゃぁどうなんだとなると、結局は権利と義務のバランスの中でどこまで自由の制限が認められるかというありきたりのことに。朝鮮半島やチャイナの場合は対抗する勢力の脅威から国民自身の権利を守るために一致団結する、小さな自由はこの際がまんしてもらうということなんだろう。革命で成立した政権、独立を勝ちとった国家、あるいは独立を主張する勢力が強い国家でも同様のことがあるだろう。先進国で、安定していて内部に不安要因のないところでは国歌や国旗はおだやかに取り扱われているようだし。日本の場合、安定した先進国だから、ガリガリに国歌、国旗を押し通す必然性は低いように思う。確かにやっかいなことを起こすかもしれんやつらが近くにはおるけど、一致団結して対抗するような仕組み(たとえば徴兵制、国民皆兵制とか)がないんだからあまり効果はない。いや、そのような制度の準備のため?
 安保闘争の時代には確かに体制がひっくり返る心配があったということだけど、その当時の念願を今になって叶えようとしても時すでに遅し、というか無用の長物化しているんじゃないか。

 理屈からゆうと、君が代、日の丸は日本の国家の歌、旗だから、日本の国家をつくる大元の日本国憲法の価値観を象徴していることになる。しかし、君が代、日の丸が好きな人ってたいていは日本国憲法をけしからんといっていたりするわけで、大いなる矛盾だと思う。